雨の日の攻防
高校一年
「あーっ! 降ってきたぁ」
部活終了間際、練習の合間にそんな声が聞こえてきた。
その声に、窓の外を見る若干名。もその一人だった。おかげで校門前にずらりと並ぶ黒傘のかたまりを見つけた。
どの傘の下でも黒スーツ姿の男がたたずんでいる。たった一人を除いては。
部活が終わると、は焦る気持ちとはやる気持ちを抑えて片づけを終わらせ、鞄に飛びついた。
取り出した携帯は着信ランプが点滅を繰り返している。
開いた画面に表示されていたのは、
「ディーノさんっ!!」
は音楽室から飛び出して人気のない廊下を急いだ。
ひんやりした空気が絡み付いてくるのも構わずに、ディーノのもとへと走る。
ディーノが日本にやってくるたび、はその非現実感に夢の中にいるような気がしていた。
あんなに素敵な人が本当に自分の目の前にいるのか。夢のような人はいつも、夢のような一時の後にいなくなってしまう。
現代の文明の利器は遠く離れた彼の人の声や文章をのもとまで届けてくれるけれど、それはあくまで一部分でしかない。
だからは急ぐ。
少しでも早く会うために。夢じゃないと言い聞かせるために。
昇降口につくと、わき目もふらず下駄箱に駆け寄った。靴を履きかえればディーノに会える。下駄箱に伸ばしたの手がとまった。
の一途な想いを邪魔したのは、皮肉なことにもディーノが来ていることを教えてくれた雨だった。
ディーノを見つけた瞬間、他のことはきれいさっぱり抜け落ちてしまったが、今日のは傘を持ってきていなかった。置き傘もない。
すぐ近くにディーノがいるのに、もう一度校舎に戻って学校の置き傘を取ってこなければならない。
きびすを返したところで、待たせているディーノに連絡しておこうと携帯をとりだした。
「!」
柔らかに耳朶をうつ雨音の向こうからを呼ぶ声がした。
携帯を持った手を胸にあてて振り返ると、雨に煙るグラウンドをバックにディーノが立っていた。
「ディーノさん!」
「部活おつかれ」
傘をたたんだディーノはのいる昇降口までやってきた。
雨による湿気か、ディーノの髪はいつもよりウェーブがかかっている。それを片手でかきあげて、ディーノはの目の前までやってくると微笑んだ。
「迎えに来たぜ」
の全身がきゅっと緊張する。心臓はそれを突き破る勢いで全身に血液を送り込んでくる。
ディーノの笑顔は薄暗い昇降口でほのかに光を放つようだ。パンクしそうな頭にかろうじて現状がよぎる。
「あの、ちょっと待っててもらっていいですか?」
こんなことを言うのは非常に不本意だが、仕方がない。
「忘れ物か?」
腰に手をあててこちらを覗きこんでくるディーノにの胸の鼓動はいや増す。
「はい。傘を忘れてしまったんで……」
「ああ、それなら心配いらねーよ」
傘を開いたディーノが、昇降口に立つへ手を差しのべた。
「お手をどうぞ、お嬢さん」
「、もっとこっちこないと濡れるぞ」
「はい……」
ある意味、傘の下は密室である。半径いくらもないような空間ではかつてないほどディーノに急接近していた。
雨の匂いとは別にディーノのつけている香水がほのかに香る。
横目でこっそりディーノをうかがえば、まず目に入るのは傘を握る手だった。
華奢に見えてもよりひとまわり以上ある手首と、そこから続く腕は大人の男のものだった。
そのまま顔のほうへ視線を滑らせると、しっかり目が合ってしまった。
「寒くないか、?」
「大丈夫、です」
うわずる声に狼狽は隠せないが、はディーノから目が離せない。
まるで二人の間に磁力が存在しているように、ディーノに引き寄せられてしまう。
「ボスー、オレの傘使いますか?」
後ろからの声に我に返ると、本当に引き寄せられていたようで、はあわててディーノから離れた。
せっかくのいい雰囲気に茶々を入れて騒ぐ部下達に、かすかに顔を赤らめたディーノが声を張り上げた。
「間に合ってるっ!!」
それにウケた部下達はさらに続けた。
「嬢ちゃんが傘忘れてるかもしれないって言ったら、嬉しそうな顔で大丈夫とか言ってさ」
「大丈夫って、こういうことかよ」
「どこが大丈夫だよ」
「よけい危ないだろ」
好き勝手に騒ぐ部下達に渋面をつくるディーノの飾らない様子に、は笑みを誘われた。話されている内容が内容だけに、耳がほんのり熱くなる。
二人の後ろからぞろぞろついてくる部下達も皆一様に傘をさしている。どこの大名行列かと思うほどだが、雨のせいで人通りが少なく、驚かせる通行人がいつもより少なかったのは幸いだったかもしれない。
「あいつら〜」
憮然とした面持ちのディーノに、は緊張がとれた顔を向けた。
「でも、本当に助かりました」
改めて礼を言うにディーノがしかめっ面を消して笑いかける。
「気にすることねーよ。と一緒に帰れてオレは嬉しいんだからな。それより、学校のほうはどうだ?」
それからは部活のことや友人達のことをディーノに聞かれるままに答えた。も色々聞きたいのだが、気がつけば今日もばかり喋っている。
ディーノが柔らかな笑みを見せながら話を聞いてくれるのがうれしくて、言いたいことが後から後からあふれてくるのだ。
けれど、だってディーノのことをもっと知りたい。ディーノがどんな日々を送っているのか聞きたかった。
なんとか糸口を探ろうとがディーノを見上げると、突然ディーノの顔が固まった。
次の瞬間、強い力がを襲った。
何が起きたかわからないの耳に、飛沫を立てて走り抜ける車のエンジン音が届いた。
「大丈夫か、?」
「はい?」
間の抜けた声を出したことにあわてて顔を上げれば、至近距離にディーノの顔があった。
自分の置かれた状況がはっきりするにつれ、の鼓動が息を吹き返した。
を襲った強い力は自分を抱き寄せるディーノの腕だった。そして今、はディーノのコートの内側にいた。
光を縒ったようなディーノの髪がの前髪に触れた。吐息の湿り気が肌をくすぐる。
「身体、冷えてるな」
耳元で囁かれた声には身を竦めた。それを寒いせいだと勘違いしたディーノがさらにを抱き寄せた。
声も出せないは、ディーノの胸に顔を埋めて隠れるようにする。
すると、ディーノの腕の力が強くなった。
「そんなことじゃ、いつまでたっても帰れないぜ、お二人さん」
「二人とも風邪ひいちまいますぜ」
外界からの声にはぱっと身を引いた。
が傘の外に出てしまわないように、ディーノはの腕を優しく引きとめた。
「わかってる!!」
雨に負けずに盛り上がる部下達にディーノが再度渋面をつくった。
「ったく。少しは気を使えって」
ディーノの呟きを部下達が聞いていたら、それこそ気を使って声をかけてやったと言うだろう。
「何か言いましたか?」
「いや、なんでもない。行こうぜ、」
「はい」
傘の下、雨が二人の世界を包んだ。
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