セツナイハナ

高校二年




 紺碧の空の下、は慣れない下駄を鳴らして急いでいた。
 並盛神社へ向かう人々の流れに逆らって祭囃子が届く。
 行列の肩越しに見ていた鳥居が迫ってきた。
 ふいに人波が途切れ、鳥居まで遮るものがなくなった。
 と柱を結ぶ直線上に浴衣姿の男が佇んでいた。
 そうと認識する前にの目は男に吸い寄せられ、急いでいたことも忘れて足が止まった。
 の視線を感じたのか、別のところを見ていた男と目が合った。すると、男は大きく顔をほころばせた。
 鳥居に預けていた背を起こして、のほうへ近づいてくる。
 それに合わせてもゆっくりと歩き出した。

「お待たせしました」

 うわずりそうになる声を抑えて出すと、少しかすれてしまった。
 の動揺を見透かしたような目を細めて、ディーノは笑った。

「時間ぴったりだぜ」


 鳥居の端では改めてディーノと向き合った。
 ディーノの浴衣姿を目にするのは初めてだ。
 藍染めの浴衣がディーノの肌によく映えている。頭上の提灯に淡く輝く金髪もひときわ華やかだ。
“浴衣を着た外国人”は周囲の目を引く要因ではあるが、あでやかな容姿のせいで、ひきつけた視線を長く留めている。
 女性グループが囁き交わしながら鳥居周辺に群がっている。
 それなのに、なぜ声がかからないのか。
 原因はディーノの周囲を固めている黒スーツの男達にあった。
 そのなかのひとりがに声をかけた。

「よお、嬢ちゃん。浴衣似合っているな」
「ロマーリオッ!?」

 ロマーリオの賛辞にが反応するより先に、ディーノが声をあげた。
 予想通りのボスの反応にロマーリオはにやりと笑う。

「なんだよ、ボス」
「人のセリフとるなよな!」
「ボスが嬢ちゃんに見惚れて言葉もなかったようだから、代わりに言ってやったんじゃねーか」
「余計なお世話だ!!」
「マヌケ面さらしたボスが悪い。なぁ、嬢ちゃん?」

 気が置けない二人のやりとりに、のなかで高まっていた緊張感が薄れていった。

「そんな。ディーノさんこそ、素敵です」

 うっすらと顔を赤らめたは、隠しきれない動揺を巾着の紐を弄ぶことでごまかした。

「Grazie. でも、のほうがずっときれいだ」
 
 部下に先を越されたが、ディーノはストレートだった。

「お二人さん、祭り見物するんだろ。いつまでもそんなとこに突っ立ってちゃ、迷惑だぞ。行った、行った」

 放っておくと二人きりの世界に突入しそうだったので、ロマーリオは二人を人波に押し出した。

「あっ!」
「おっと」

 バランスを崩しそうになったを、ディーノの力強い腕が支えた。

「オレたちは後ろにいるぜ〜」
 
 ロマーリオの声とともに黒スーツ集団が遠ざかり、祭りのざわめきにのみこまれていった。


「急に誘って悪かったな」
「そんなことないです。誘ってくれて嬉しかったです」

 そう言ってはここに来るまでを振り返った。
 午前中に届いたディーノからのメールで今夜の祭りに誘われた。
 メールを読んだ瞬間、驚きと喜びのあまり大きな声を出してガッツポーズを決めたことは口が裂けても言えない。
 即座に了承の返信をして、それからの準備が大変だった。
 待ち合わせまではたっぷり時間があったのに、気がつけば出発時間ギリギリだった。
 部屋を出る前に冷静になって見渡した室内は、台風一過の様相を呈していた。帰ったら片づけが待っている。
 急に遠い目をしたを見下ろして、ディーノが言いにくそうに切り出した。

「あー……っと、な。約束してるやつとか、いなかったのか?」

 ディーノらしくない、ストレートでもスマートでもない言い方だ。
 歯切れの悪いディーノとは違って、はあっさり答えた。

「みんなで行こうって話は出てますけど、今日じゃないから大丈夫です」

 気をつかってくれたディーノを安心させようとしたの返答に、なぜかディーノは焦った顔を見せた。

「みんなって?」
「ハルとか京子ちゃんとか。いつものメンバーですよ」

 含むところのないの答えにディーノはこっそり胸をなでおろした。

「そっか。だけど祭りは夜だから、女だけだと危ねーぞ」
「大丈夫です。ツナ達もいますから」
「なら安心だな」

 ツナと聞いて安心するディーノには首を傾げたくなった。
 二人は一体どういう関係なのだろう。
 ツナによると、リボーンの知り合いらしいのだが、ディーノに直接尋ねたことはない。
 果たしてこれは聞いてもいいことなのか、ダメなのか。
 ディーノはあまり自分のことを話さない。その程度の関係だと思って落ち込みそうになるが、のことは色々聞いてくれる。
 思いきって聞いてみて、もし答えてくれなかったら。
 二人の距離をはっきりとつきつけられそうで、些細に感じることでもは恐くて聞けなかった。


 目を伏せて隣を歩くを盗み見るのは今夜何度目になるだろう。
 ディーノ自身が着ているし、祭り見物の多くが着ているから、大体の想像はできたはずだった。
 けれど実際、浴衣姿のを前にすると、その他大勢と同じとは思えなかった。
 白地に大輪の向日葵をあしらった浴衣姿のは、彼女自身が夜に咲いた花のようだった。
 浴衣は布を一枚纏って帯で締めているだけなので、洋服以上に体のラインが強調されている気がする。
 少女から女へと成熟しつつあることを今夜はことさら意識してしまう。
 けれど相手は未成年。それ以前に、ディーノはに自分の想いさえ伝えていない。
 さながら手足をふさがれたエンツィオのように、ディーノはただ見つめることしかできない。

「ぉわっ!!」
 
 そんなことを考えていたからか、ディーノは思いきりつんのめってしまった。

「大丈夫ですか!?」

 隣を歩いていたが驚いて足を止めた。

「ケガとかないですか?」
「ああ、大丈夫だ」
「人が多いですし、下駄は歩きにくいですからね」

 心配顔のを見下ろして、ディーノは少しだけ自分を甘やかすことにした。

「気をつけるためにも……」

 の指先を掬い上げるようにして包み込んだ。

「手、繋ごーぜ」


 繋いだ手の効用か。今夜のディーノはそばに部下がいなくとも、いまだ転ぶことはなかった。
 ディーノが転んでしまったらを道連れにしてしまう。そう思えば、躓いても踏ん張ってこらえることができた。
 繋いだ手を離さずに、二人は夜店をのぞいて祭りを満喫した。
 綿菓子にたこ焼き、りんご飴。金魚すくいに水風船。ディーノの頭にはひょっとこのお面が斜めに乗っかっている。


「……気になるか?」

 ディーノがそれまでの調子を変えて声をかけてきたのは、花火を見るために移動していた時だった。
 その時のはちょうどディーノを見上げていて、色香漂う横顔に見惚れていた。そのため、何を問われたのか分からなかった。

「何がですか?」
「いや。気にならねーなら、いーんだ」

 そう言って笑う横顔が寂しそうに見えて、は隣を歩いているはずのディーノが急速に遠ざかっていくような気がした。

「ダメです」

 人の流れを止めてしまうことも忘れて、は繋いでいた手をひっぱって足を止めた。
 いつになく強い調子のの声に、ディーノの足も止まった。

「ダメって、何がだ?」

 ディーノのわざとらしい困惑顔にの顔が曇る。

「ちゃんと言ってください」

 の目を避けるディーノを見つめていると、心に穴があいたような気がする。
 今夜二人で過ごした時間に築き上げた、目には見えない何かが崩れていく。
 それを止めたくて、は一心にディーノを見つめた。
 を避けたディーノの横顔は何かに強く捕らわれているようだった。ディーノはそれをに告げるのを躊躇っている。
 けれど、ここで曖昧にしたら、二度と取り戻せないものがあるような気がした。
 繋がったままの右手に勇気をもらっては口を開いた。

「……私じゃなくて、ディーノさんが気になっていることがあるんじゃないですか?」

 それを直接口にするのが躊躇われたため、あえて遠まわしな言い方をしたのではないだろうか。
 は自分が考えられる限りのことを一生懸命言葉にして紡いだ。
 墓穴を掘って袋小路に陥っていたディーノは、の鋭さに胸を突かれた。避けていたの目を正面から見つめる。
 ようやくディーノと目が合ったものの、その目に宿る寂寞を見て、はひるみそうになる。
 それはの知らないディーノだった。けれど、の知りたいディーノであることに変わりはない。
 
「ディーノさんの気に触るようなことがあったら直しますから。何でも言ってください」
 
 まさかが自分を責めるとは思ってもみなかったディーノは、驚きのあまり目を見開いて、慌てて否定する。

「なっ!? そんなわけねーだろ!」

 慌てるディーノはいつもの調子が戻ったように見えて、は内心ほっとした。

「じゃあ、何ですか?」

 緊張が緩んだこともあってか、は気負うことなく問い直した。

「これ、気にならねーか?」

 ディーノにしては珍しく乱雑に吐き出された言葉とともに、首筋のタトゥーを示された。

「タトゥーですか?」

 予想外の流れに、は首をかしげた。

「首から手の甲まで全部続いてんだ。日本じゃあんま見ねーだろ」

 ディーノのタトゥーは広範囲に及んでいる。服装によっては、もこれまでに何度か目にすることはあった。
 ディーノの言うように、彼ほどのタトゥーをした者は、少なくとも日本ではあまりお目にかかれないだろう。

「確かに、珍しいとは思いますけど」

 気になるかと聞かれれば、答えはノーだ。
 にとって初めからタトゥーを含めてディーノだった。

「大事なもの、なんですよね?」

 と繋いでいるほうのディーノの手がぴくりと跳ねた。
 半身に及ぶほどの刺青をすることはただのファッションでできるようなことではない。
 なかにはいるかもしれないが、少なくともディーノの性格にはそぐわない。
 そもそも古来の刺青には呪いや刑罰といった“意味”があった。
 の勝手な思い込みかもしれないが、そういった意味を持っているほうがディーノらしいと思うのだ。
 それにただのファッションなら、ディーノはこんなに思いつめたような顔はしないはずだ。

「ディーノさんの大事なものなら、私は何も気にしません」

 には他に気になることがたくさんある。

「むしろ、こっちのほうが気になります」

 あいているほうの手で繋がれている手を包んだ。
 目を丸くしたディーノを見て、やりすぎだったとは手を離そうとした。

「ごめんなさい。私、……」

 しかし、今度はディーノが両手での両手を包み込んだ。

「ディーノさん?」

 何か言おうと口を開きかけたディーノは、そのまま口を閉じてくしゃりと顔をゆがめた。
 それが嫌悪からではないことは、を見つめるまなざしが教えてくれた。

「ありがとな、

 お礼を言われる意味は分からなかったが、ふっきれたようなディーノの顔を見ては笑顔を返した。

、……ぅわっ」

 ディーノが再び口を開こうとした時、人波に押されたディーノがに向かって倒れこんできた。

「ディーノさんッ!」

 まともにディーノの胸にぶつかったの視界が閉ざされた。
 衝撃と驚きで瞑っていた目を開くと、は屋台裏の道端でディーノの膝の上に乗っていた。

「すみません! すぐ下りますからッ」

 そうは言っても、これが洋服ならすぐに動けるが、浴衣に下駄ではそうはいかない。
 倒れこんだ時にめくれた裾を戻したあと、は手のやり場に困った。
 大人の男の体というものを肌で感じて、自分が女であることを強く意識してしまう。
 心細いような安心するような落ち着かない気持ちが湧き上がってくる。
 二人分の体温が混じりあって境界線をなくし、触れているところから溶けていきそうだ。
 精神的にも肉体的にもなんだか非常にまずい状態だった。
 とにかく起き上がるのが先決だと、は覚悟を決めてディーノの両肩に手を置いた。
 すると、ディーノの両腕がの脇の下を通って背にまわった。

「え……?」

 その時、狙いすませたように二人の頭上で大輪の花が咲いた。
 音の出所は、今宵最初の花火だ。
 二人のいるところは人気もなく、屋台や提灯の明かりも届かない。
 花火の煌きだけが夜空を染めあげていた。

「ディーノさん、花火上がりましたよ」

 状況を忘れて声をかけたを、ディーノは無言で強く抱きしめた。

「ッ……あのっ、せっかくですから、花火見ませんか?」

 現状に戻ったが軽く身じろぎすると、ディーノの体がわずかに離れた。
 花火は一瞬の煌きの後に姿を消して、辺りには夜の闇が戻っていた。
 間近にあるはずのディーノの顔すら闇にまぎれていた。
 表情はわからないながらも、ディーノから何か強いものがまっすぐに注がれた。
 見えない力に捕まったように、は身動きができなくなった。
 数瞬の後、の視界が塞がった。

「ッ!?」

 何かがの顔にぶつかった。
 頭上から再び大きな音が二人に落とされた。
 そのため、ディーノが囁いた言葉はには届かなかった。

「              」


 
 視界が晴れると、はディーノにひっぱられて立ち上がった。
 の顔にぶつかったのは、ディーノがつけていた面だった。
 ディーノはの顔から面を離して頭にかぶり直した。

「花火見に行くか」

 二人きりじゃなくなるのが、残念なようなほっとするような複雑な気持ちで、それでもは一応の提案を試みる。

「ここからでも、よく見えそうですよ?」
「んー……だけど、ロマーリオたちが心配するからな」

 我儘は禁物と言い聞かせて、は気になることを聞いてみることにした。

「それもそうですね。ところで」
「ん? なんだ」
「ディーノさん、さっき何か言いました? 花火の音でよく聞こえなかったんですが」
「ああ……。いや、何も。ひとり言だ」
「そうですか」

 言い訳めいていたが、とりあえずは納得した。
 はっきり聞き取れなかったが、ディーノの母国語であるイタリア語のようだったから、おそらくそうなのだろう。

「あんま気にすんな。それより行こうぜ」
「はい」

 とディーノは改めて手を繋ぎなおして、メインイベントへと向かった。


「やっぱり花火はきれいですね」
「ああ、そうだな……」

 花火を楽しむに生返事をしながら、ディーノはだけを見ていた。

『Io derubare voi da ogni cosa.(いつかオレはお前の全てを奪いに行く)』

 決意か、あらかじめの懺悔か。
 けれど、その時がきたら躊躇はしない。
 さきほどは衝動に負けて唇を奪いそうになったが、とっさに面をかぶせて、面越しで我慢した。
 好意を寄せてくれているのは分かっているが、自分の気持ちも正体もはっきり告げていない今、ディーノにはから何ひとつもらう資格はない。
 願わくは、にはディーノが愛したそのままでいて欲しい。
 業を背負ったタトゥーごと包んでくれた温もりをずっと守っていきたい。

 闇に生きる者は光を手にすることは不可能なのだろうか。
 夜空に咲いた花が刹那に散るように――。


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