戦場なき線上

高校三年




 要人が多く利用する飛行場で自家用機に乗り込んだディーノは、席に着くなり持ってきた書類に目を通しはじめた。
 手元にはノートパソコンが開かれており、いつでも操作できるようになっている。
 離陸を知らせにきた部下に無言で頷いて、仕事の残りを片付ける。
 フライトから数時間後、全ての書類に目を通して必要な処理を終えた。
 眼鏡を外して座席に体を預けたディーノの前に湯気の立つカップが置かれた。

「少し眠ったらどうですかい? 嬢ちゃんに疲れた顔は見せらんねーだろ」

 休息を勧めるロマーリオの言葉に、彼女の面影が脳裏をよぎった。
 仕事に専念するため、彼女への思いを自制していた心がふと緩みそうになる。

「そうだな」

 ディーノは曖昧に頷いて、カップを取って口をつけた。
 窓の外には雲海が広がり、白い輝きが眼球にしみた。
 カップを置くと、体の力を抜いて目を閉じた。眠る代わりに処理したばかりの案件を整理する。
 事業報告書もあれば、敵対組織との抗争に、シマの懸案事項など内容は多岐に渡る。
 先ほど済ませた決裁によっては、事態が大きく変わるところも出てくる。それに関しては追って報告を求めなければならない。
 傍目には休息しているように見えるが、見せかけだけだ。
 自分の采配で大事なファミリーの命運が決まる。
 気の抜けない瞬間の連続。それがディーノの日常だった。
 マフィア界でどれほど名を上げようと、明日の我が身の保証はない。
 常にあらゆる可能性を考慮して決断を下しても、迷いは常にあった。
 この世界に身を置くが故、迷いも後悔も数え切れないほどある。
 けれどもそれは、ディーノが刺青とともに一人で背負っていくと覚悟したことだ。増え続ける後悔を死ぬまで――ずっと。
 大切なものが犠牲になるから、後悔は罪を犯すのと同じだった。
 罪を背負いきれなくなった時がこの身の最期になるのだろうか。
 いつ散ってもおかしくない命だが、守りたいものがあるから簡単に終わることはできない。
 ファミリーを思う気持ちが大きいほど、迷いも後悔も大きくなる。
 けれど、迷う姿は五千の部下を従えるボスにふさわしくない。部下の前では見せられない、弱くてちっぽけな男だ。
 男は罪を背負いきれずに潰れ、ボスであるディーノの内に沈んでいく。
 いつか誰にも知られずにひっそりと葬られていくのだろう――そう思っていた。
 しかし、ディーノを闇に繋いだファミリーは、同時に光も繋ぎとめてくれた。
 父の代から自分を信じてくれたロマーリオをはじめとした部下達、シマのみんな、多くの仲間達が慕ってくれた。
 たとえ誰も知らない男が己の中で死に果てようと、彼らのためなら喜んで命を懸けようと何度でも思う。
 そして、ディーノは彼女に出会った。
 誰も知らない、潰されかけた男を救ってくれた彼女に。


「ボス、着きましたぜ」

 ロマーリオの声に目を開けると、そこはもう日本だった。
 滑らかな動作で身を起こし、ディーノは席を立った。
 目覚めた瞬間から次の行動がとれるのは、いつどこで命を狙われるかわからない生活の賜物だった。

「よく眠れましたか?」

 通路の途中で部下の一人に声をかけられた。

「そうだな。いつの間にか寝てたみたいだ」

 タラップをおりて専用のリムジンに乗り込む。行き先は告げなくても分かっているはずだ。
 スモークガラス越しの景色が移り変わるにつれて、じわじわと喜びが沸きあがってくる。
 ディーノは携帯を出して、もうすぐ着くとメールを送った。
 今日のことはあらかじめ連絡を入れてある。ディーノが学校まで迎えに行く手はずになっていた。
 返信はすぐにきた。
 文面を読んだディーノは口元をほころばせた。

 
 リムジンをおりたディーノの耳に愛しい声が飛び込んできた。

「ディーノさんっ!!」

 ディーノが腕を広げるとがまっすぐに飛び込んできた。
 一拍遅れての髪がディーノの腕をふわりとかすめた。
 柔らかな重みを抱きとめる時、ディーノはいつも“男”に活力が戻るのを感じる。
 を必要としているのは、ボスであるディーノだけではない。
 彼女を抱きとめようと、小さく縮こまっていた男が息を吹き返し、大きく膨らんでディーノに重なる。
 ボスが表なら男は裏だった。本体ならば影。この時、表裏は一体となり、影を手に入れた本体は完全になる。
 を抱きしめるたび、ディーノは自分がボスとは違った何か大きな存在になったように感じられる。
 ディーノの中で弱くてちっぽけな男が全身で叫んでいた。
 この女を守りたい。慈しみ、愛したい。そのためには、いくらだって強くなってやる――と。
 いつだって男は愛するもののために強くなる。

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