Paese che vai, usanza che trovi
(郷に入っては郷に従え)
中学三年
昼食時間、友人達が弁当箱を片付ける頃合いをみて、はバッグから容器を取り出した。
蓋を開けるとふわりと甘い香りが立ち上る。
「これ食べない?」
「ちゃんがつくったの?」
「昨日ね。失敗作で悪いけど、持ってきてみた」
笑顔を向けてきた京子にが中のものをすすめた。
「手作りクッキーね。だけど今日はの誕生日でしょ? なんで主役のあんたが私たちにプレゼントするのよ?」
クッキーを見て首をかしげる花に、隣の友人が答えた。
「今日はディーノさんが来るんじゃない?」
その言葉に、はこくりと頷いた。
「うん。だからプレゼントしようと思って」
「ディーノさん、今日がちゃんの誕生日だって知らないの?」
容器から顔を上げた京子には答えた。
「それは知らない。だけどイタリア人って、誕生日にはプレゼントをもらうんじゃなくて、自分であげるんだって」
「ちゃん、イタリアのこと調べてるんだね」
のイタリア人講座に京子は素直に感心した。
「少しでもディーノさんに近づきたいからね」
「だけど、せっかく今日会うんならプレゼントのひとつでもおねだりしてみたら?」
花がからかっても、はそれにとりあわなかった。
「それはできません。そもそも、今日会えること自体が私にとっては一番のプレゼントだし」
「全く、欲がないわねぇ」
「片思い中ですから」
控えめなの態度に花が呆れと感心半分ずつのため息をついた。
「今日がの誕生日だから会いに来たんじゃないの?」
「それはないでしょ。仕事で日本にくるついでにツナに会いにくるから、会わないかってメールだったし」
「また回りくどい話ね」
「どういう意味?」
「こっちの話」
花の予想通り、に会うことが来日目的の90%であるディーノは、を待って校門近くに止めた車の中にいた。
隣には可愛らしいラッピングの箱が置かれている。
日本の誕生日の習慣がイタリアのそれとは逆であることは知っている。
日頃からに色々プレゼントしたいのにできない身としては絶好のプレゼントチャンスであるが、相手はまだ中学生だ。
自分が贈りたいものを好きに選んで贈っては、が気後れしてしまうかもしれないし、両親にあらぬ誤解を抱かせることもありうる。
何しろディーノが贈りたいものといえば、花にはじまり、アクセサリーやバッグ、服、靴ときりがない。
パーティーでそれらのものが目にとまるたびにに贈りたいと思っているのだ。
さすがにそれは非常識なので、日頃は細かな機会を捉えてその欲求を消化してきた。
だけど、今日はの誕生日だ。主役のにはプレゼントを受け取る正当な権利がある。
とはいっても、あまり豪華なものでは受け取りにくいだろうから、あくまで控えめにした。
ディーノは隣に置いている箱に視線を落とした。
透けるような薄紙と光沢のあるリボンで包まれた箱には小さな造花が添えられていた。
中身はチョコレートだった。
正式な交際の申し込みもまだなので、相手が負担に思うような高価なものは贈れない。
食べ物なら多少値が張っても、受け取ってもらえるだろう。そういう配慮の上でのチョイスだった。
だがそれはディーノ側の見解だった。
一般人の金銭感覚からいうと、このプレゼント、ラッピングだけでも相当値の張る代物だった。
チョコレートも、庶民はめったにお目にかかれない超高級品だった。
一粒あたりの値段を聞けば、は絶対に受け取らないだろう。
「そろそろだな」
時間を確認して車から出たディーノは、を迎えるべく校門へと近づいていった。
「お待たせしましたっ!」
自分に会うために息せき切って駆けつけてくるを見ていると、ディーノの胸の中で愛しさがこみあげてくる。
あがった息を整えているを車までエスコートする。
車内に落ち着いたところで滑るように車が動きだした。
「ディーノさん、時間は大丈夫ですか?」
こちらの都合を優先してくれるがいじらしくてディーノはたまらなくなる。
「ツナには夜に行くって言ってあるから、時間は気にしなくていいぜ。それより、」
「はい?」
ディーノがのほうへ体を向けたので、も座り直してディーノと向き合うようにした。
近いなと思ったディーノとの距離がどんどん狭まってきた。
気がつけばの視界いっぱいにディーノの金髪が広がっていた。
「ディーノさ……んっ」
頬にあたたかい唇が寄せられ、イタリア語の甘い響きが耳朶をくすぐった。
「Buon compleanno」(誕生日おめでとう)
赤面するを見下ろしてディーノは頬を緩めた。
「今日はの誕生日だろ? プレゼントを用意したんだ。受け取ってくれるか?」
「知ってたんですか?」
ディーノが自分の誕生日を知っていてくれたことだけでは舞いあがりそうになる。
「驚かせたくて黙ってたんだ」
片目を瞑ってみせながら、ディーノはきれいに包まれた箱を取り出した。
「わぁ! ありがとうございます」
ラッピングだけでもプレゼントになりそうなほど素敵な箱だ。はガラス細工を扱うようにそっと受け取った。
「すごく綺麗ですね」
シルクのようになめらかなリボンが肌を滑って、は感嘆のため息をついた。
「なんだか開けるのがもったいないです」
「そう言わずに開けてくれ」
はゆっくりとリボンをほどいて、慎重に包みを剥がしていく。包装紙もリボンも大事にとっておこうと思った。
浮き出し文字が施された蓋を開けると、たくさんの粒チョコレートが品よくつめられていた。
プレーンチョコレートのカレや、トリュフ、粒チョコのプラリネ、ガナッシュなど種類もとりどりだった。
「すごい! こんなにいっぱい」
息を飲んでチョコレートを見つめるにディーノは満足そうに微笑んだ。
「に喜んで欲しくて選んでたら、結局どれが一番いいかわからなくて……嫌いな種類とかなかったか?」
「はい! これ、ディーノさんが選んでくれたんですか?」
思わず出てきた言葉にディーノは問いかけるように眉を上げた。
「ディーノさん忙しいのに、私のために時間をさいてもらったなんて……」
ディーノのように地位も立場もあれば、さぞかし多忙な毎日を送っていることだろう。
それなのに自分のために貴重な時間を使わせたと思うと恐縮してしまう。
ディーノの本業を知らないは青年実業家のイメージを持って答えたが、多忙なことに間違いはなかった。
「に贈るものは人に任せたくないからな。いくら時間を費やしても惜しくないぜ」
「ありがとうございます」
包みを崩さないように胸に抱いて、は感動に潤んだ目でディーノを見上げた。
「……」
蜜を求める蝶のようにへと傾きそうになったディーノにストップがかかった。
「ボス、飲み物が冷えてるんじゃないですか?」
助手席のロマーリオが振り返って人の悪い笑みを浮かべていた。
「あっ、ああ……そうだったな」
ディーノは夢から覚めたように体を起こして車内冷蔵庫からグラスとボトルを取り出した。
「乾杯しようぜ、」
シャンパングラスを見たが困った顔をする前にディーノが一言添えた。
「安心しろよ。ノンアルコールのジンジャーエールだ」
「すみません」
「なんでが謝るんだ?」
「お酒があるなら、私に気にせずに飲んでくださいね」
“大人”なら、こんな時はアルコールで乾杯するはずだ。
ひとつ歳を重ねても、自分はまだまだディーノに合わせてもらっている“子供”だった。
「?」
ディーノの指がへと伸びて頤にそっと添えられた。
「ディーノ……さんっ」
アップで迫ってきたディーノには首筋から熱がこみ上げてくる。
ディーノの吐息が唇に絡みつく。
「大事なのは何を飲むかじゃなくて、誰と飲むかだろ? それに、オレが飲みたいのはと同じものなんだ。シャンパンはの二十歳の誕生日の時だな」
ディーノの言葉にどれだけ期待していいのか計りかねて、の胸が痛む。その一方で、単純に喜んでしまう自分もいる。
今日は特別な日だから、ディーノの言葉に甘い夢を見ても許されるだろう。
「すごく楽しみです」
「ああ。楽しみに待ってろよ」
渡されたグラスの中でたくさんの小さな泡が際限なく立ち上っていく。
儚くも美しい黄金色の泡沫がの胸をひたひたと満たした。
「こんなに素敵なプレゼントをいただいた後でどうかと思うんですが……」
シャンパンとチョコレートタイムが終了すると、はバッグからラッピングされた箱を取り出した。
「オレにか?」
ディーノは自分へと差し出された箱を受け取った。
「イタリアでは、誕生日は本人がプレゼントする習慣なんですよね」
「ああ、そうだ」
そのためディーノは毎年、自分の誕生日には盛大なパーティーを開いている。
「だから今日ディーノさんに会えるなら、私もその習慣に習ってみようと思って作ったんです」
「が作ったのか?」
「はい。ディーノさんからもらったプレゼントとは比べ物にならない出来なんですけど」
包装紙からして素材の差は歴然としていた。それでも、大好きな人の国の習慣だから、はどうしても渡したかった。
「そんなことないぜ。すごく綺麗に包んであるな」
手作りらしい包装に、これを包むの姿が目に浮かぶ。
丁寧に飾りつけられた包装には贈る相手への気持ちがあらわれていた。
「の気持ちがいっぱいこもってる」
こんなに心がこもった贈り物は初めてだった。
それを贈ってくれたのがだということに、言葉にできないぐらいの喜びがあふれる。
「こんなに嬉しい贈り物は初めてだ。なんだかどっちが誕生日だかわからなくなるな」
「そんなことないです。中身もあんまり自信がないんです」
が心配そうな顔を見せたので、ディーノは丁寧に包装をはがし、箱の蓋を開けた。
「クッキーか……この絵」
が説明をしようとして口を開いたがディーノのほうが早かった。
「エンツィオか」
「……はっ、はい。そうなんです」
分かってもらえた喜びにの返事が一拍遅れた。
「これもが描いたのか?」
「型を作ってココアをふって描きました」
「すごいな」
「そんなことないです。型をつくってしまえば後は簡単ですから」
「オレには思いつかねーな。ほら、エンツィオ。からのプレゼント、すげーだろ」
懐からエンツィオを出してクッキーを見せると、エンツィオが口を開けてクッキーにかじりつこうとした。
「おっと。オレが食べるまでは待ってくれよ」
そう言ってディーノはクッキーを食べた。
「すげーうまい」
ディーノの笑顔の輝きには頬を赤らめた。
「よかったです」
「エンツィオにもいいか?」
「もちろん、どうぞ。ロマーリオさんたちの分もあるんです」
「そっ、そーなのか?」
「はい。ロマーリオさんたちにはお世話になっていますから」
確かにディーノも自分の誕生日にはパーティーを開いて大勢を招待する。だから、がイタリアの習慣に習ったのなら妥当である。
妥当ではあるが、ディーノは自分だけの特別だと思いたかった。
しかもは“お世話になっている”と言った。もしや自分のこともそう思われているのか。
だが、“ロマーリオたちには”とも言っている。ならば自分はそれにはあてはまらないということだろうか。
悩むディーノには気づかずに、はバッグに手を入れた。
「たくさん作ったので、後で食べてください」
別の箱を取り出して、前に座るロマーリオへ差し出した。
「悪いな嬢ちゃん」
「日頃のお礼も兼ねてますので。みなさんでどうぞ」
「ありがとな。みんなも喜ぶぜ」
助手席のロマーリオと後部座席ののやりとりを、ディーノは何ともいえない顔をして見守った。
ロマーリオが受け取った箱はディーノがもらったものより大きいものだった。
包装はディーノのものより簡素だったが、大きさの違いにショックを受けたディーノは気づかない。
バックミラー越しにボスの様子を見た運転中の部下は、黙って苦笑をこらえた。
※ 作中、イタリア語訳反転。
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