サクラサク キミハサル
中学二年
想像ができない。
明日からの日常に、あの人が欠けてしまう実感もない。
会えないほど遠くに行くわけじゃない。
ただこの場所から去るだけ。
だからよけいに恐かった。
想像ができないという恐怖。
式に出るような人ではなかった。
体育館から戻ったあと、見送りのために再び教室を出たところで、はその流れを離れた。
行き先は応接室。ノックももどかしく扉を開けた。
「失礼しまっ……」
いつも綺麗にしてある部屋が、今日は特別に綺麗だった。
あの人専用の机の上には書類一枚ない。
そこはもはやにとっての“応接室”ではなかった。
部屋は本来の機能を取り戻し、新しい日常の片鱗をつきつけられた気がした。
きびすを返したは逃げるように次の場所へ向かった。
屋上の扉を開けるとその人はいた。フェンス越しにグラウンドを見下ろしている。
風が吹き上げて、こんなところまで桜の花びらが届く。
翻った学ランの袖には、今日も腕章が留められている。
それを確かめたはほっとして座り込みそうになった。
の気配に気づいたのか、雲雀が振り返った。
「やあ」
フェンスに手をついて背をそらす。春の陽光を浴びた緑の黒髪がふわりと揺れた。
前髪の奥から切れ長の瞳がまっすぐを見た。
風が二人の間を吹きぬけた。桜の花弁がその後の空間を埋める。
無数の花びらが踊り子の婀娜に返した指先のように舞う。
危ういほどに幻想的な景色だった。
は目を逸らすことも忘れて雲雀に見入った。そしてあらためて思う。彼はとても美しかった。
本人にその自覚はないだろう。いつだって自然体だ。ゆえに、その価値は絶対だった。
だからこそ、そばにいるのが恐くなる。
そこに自分の居場所があることに慣れない。否、慣れてはいけないと思うのだ。
雲雀という個は強く、つりあう人間は限られる。そして自分はその人間ではない。
そんな考え事態が雲雀の嫌う弱さだ、そう思うとますます萎縮してしまう。
声をかけるのをためらうに、雲雀が口を開いた。
「遅いよ」
言葉とは裏腹に雲雀の声は優しかった。
それを確かめたは少しだけ緊張を解いた。そして、こんなやりとりは今日が初めてではないことに気づく。
思い返せばいつもそうだった。
短い言葉や眼差しで、自分から声をかけられないに雲雀はいつも聞いてくれた。
どうして気づかなかったのだろう。
どうして今、気づかなければならないのだろう。
グラウンドから卒業生の登場に湧いた歓声が上がってきた。
軽く息をついてフェンスに背中を預けた雲雀の胸元には花がさしてある。
明日からのこの場所に雲雀はいない。
そのことをイメージしようとして――できなかった。けれど今この瞬間にも、その日は刻一刻と迫っている。
時間を止めることはできない。過去には戻れない。
足掻くことができるのは、“今”しかなかった。
そう悟った時、の中にひとつの衝動がこみ上げた。それの命ずるままに雲雀へと近づく。
常に雲雀の三歩後ろにいたが、今日は正面から向かい合った。
足を止めたは、腕を伸ばして雲雀の頬に触れた。
軽く目を見開いて驚きと疑問を呈する雲雀の顔をそっと引き寄せる。
静観することにしたのか、雲雀からの抵抗はなく、も顔を近づけた。
目を閉じて、眼前に迫った雲雀の顔を閉め出す。
顔を傾けなかったので、先に鼻がぶつかった。
「……ッ」
我に返ったは、跳ね返されたようにのけぞった。
自分がしてしまったことに呆然としながら、雲雀の頬を見る。
跡などどこにもないが、確かにそこに触れた。
はもう一度、雲雀の頬へと手を伸ばす。
「……何してるの?」
「証拠隠滅です」
目を合わせないようにして、唇が触れた頬をブラウスの袖で拭う。
頬に触れる指を意識して、すぐにその手を離す。そのまま三歩離れた定位置まで下がった。
「何か言うことがあるんじゃない?」
言葉尻は柔らかいから、怒ってはなさそうだ。
雲雀の表情をうかがうと、微笑んでいるようにさえ見える。その表情に息がとまりそうになった。
逃げたくても逃げられない。見えない糸に絡め取られたように動けなかった。
雲雀はが答えるのを待っている。謝罪と償いを求められるのは当然だ。
「すみませんでした」
膝につきそうなほど下げた頭に雲雀の声が降ってきた。
「一文字もあってないよ」
たったひとつの答えを一刀両断されては、あとはひとつしか思いつかない。
「咬み殺してください」
「いいの?」
「よくないです」
悦を含んだ声で確かめられて、思わず本音が出てしまう。
の即答に、雲雀は軽く笑った。
「さっきのは何?」
説明を求められてもすぐには答えられない。がしたかったのはキスではない。それは手段であって目的ではなかった。
自分のことを忘れないで欲しかった。そのための何か鮮烈な記憶を雲雀に残したかった。
その手段がキスでは、まるでマーキングではないかと、どこから出てきたのか、行き過ぎた考えがの脳裏をよぎる。
しばらく頭を捻ったあと、ひとつの見解が出た。
これはつまり、若気の至りというやつだ。けれど、そんなこと言えるはずもない。
必死に頭を働かせて、短いながらもこれまでの人生で蓄積された語彙の中からオブラートに包まれた別の言葉を探した。
「リビドーです」
の答えに、なぜか雲雀はひどく驚いた顔を見せた。
「意味わかってる?」
「衝動って意味じゃないんですか?」
それだけの意味でなぜこれほど驚くのだろう。オブラートが足りなかったのか。
「ああ、そっちのこと。だけど、それも違うよ」
雲雀が言わせたいことがわからない。言うべきことは全て言い尽くした。
が困り果てていると、グラウンドから了平の「極限――――!!」が聞こえた。
それでやっと雲雀が待っている言葉がわかった。
しかしその言葉は、今日と明日を区切ってしまう。さよならの代名詞。雲雀はそれをに言わせようとしている。
胸のどこかが痛んで、に心の在り処を教えた。
痛みのつらさが明日からの日常を想像できるものに変えた。
鼻の奥がじわりと痺れて目にきた。言葉を紡ぐのを嫌がるように唇が震える。そのせいで息が上手く吸えない。
言葉より先に涙が出た。
は唇を強く噛んで震えをとめてから答えた。
「卒業……おめでとうございます」
からの祝辞に雲雀は満足そうに笑った。
「うん、当たり」
FINE 戻る