近年希に見る動揺
高校二年
「そういやアイツいないのか」
「うん」
部活が終わって、二人で道路を歩く。
いつもは友人も入れて3人だが、今日は用事があるらしく、
部活が休みなのも手伝って早々に帰っていった。
「じゃ、二人か」
「…そうだね」
山本の言葉にはやや間を置いて答えた。
会話に何処となく緊張感がある。
それは偏に、二人がつい最近付き合い始めたことにあった。
だが、緊張感といっても二人にしか分からないであろう程度だ。
端から見れば、いつもと変わらない光景である。
「そういや、。
昨日のナイター見たか?」
「…っ!」
耳に入ってきた言葉には瞬時に顔を上げ、驚いた表情で隣を歩く山本を見た。
「ど、どうした?」
よほど驚いた顔をしていたのだろう、山本がの表情を見て驚いている。
「なんでもないっ」
ふいっと顔を俯け、は首に巻いたマフラーを口許まで持ち上げた。
マフラーから見える頬が僅かに赤い。
「どうしたんだよ?急に」
「ナイターは見た」
急に顔を逸らしたに山本は僅かに背を屈め、顔を覗き込むように尋ねるが、
その追求を良しとしない彼女は早口で先ほどの質問に答えた。
「…あ…」
に顔を近づけていた山本が何かに気づいたように言葉を呟いた。
「名前か」
「…」
言われた真相に、は僅かに山本を見る。
「付き合ったら名前で呼ぶんだろ?
そういう決まりがあるって今日部活の時に聞いた」
「…そんな決まりない」
山本の言葉にの表情は一変し、不機嫌そうにそう答えた。
そして、そんな素敵な提案をしたと思われる部員を頭の中で浮かべた。
「そうなのか?」
山本は不思議そうに首を傾げる。
「ツナと京子ちゃんはずっと名前呼び。
付き合ってても名前呼んでない子達だっているでしょうが」
「…おぉ。そういやそうだな」
幾つか例を上げて説明したに山本は納得したように頷いた。
「だから、名前で呼ぶ決まりはないんだよ、山本」
「んー、けど、良いじゃねーか」
あえて名前で呼ばなかったの考えなど汲み取ることもなく、
山本はあっさりと答えた。
「俺好きだぜ?って」
「!」
山本の言葉にの心臓が音を立てる。
「…何で…?」
柄にもなく、は理由を尋ねた。
「俺さ、って響きも好きなんだ」
「…」
「ってって感じがするだろ?」
「…意味が分かりません」
笑顔で言った山本には冷静にツッコミを入れた。
「わっかんねーかなぁ…」
う〜ん、と山本は空を見上げて考える。
「分かった!」
何か閃いたのか、山本はに顔を向けた。
「って聞くと、が出てくる!」
「私はランプの精か?」
「違うって!そういう意味じゃなくてっ」
「分かってるよ」
慌てる山本にはクスクスと笑いながら答える。
「嬉しいって感情はちゃんと持ってる」
そう言ってはまた、クスクスと笑う。
「…そっか」
返ってきた言葉に満足したのか、山本も笑顔を見せた。
「で。ナイターの話なんだけど」
「7回表のプレーはかっこ良かった」
「だな!」
そう言って二人は野球トークに華を咲かせ帰路を歩く。
「今日はお刺身ですね〜」
食卓に並んだ刺身にの目が輝く。
「魚は見飽きてるかもしれねーけどな」
「いやいや、魚は凄く好きです」
剛の言葉には嬉しそうに答える。
「あとは、味噌汁持ってくるな」
山本が机に食事を運ぶ。
バイトをこなした日はそのまま山本家で
ご馳走になるのがもはや定番となっていた。
「そういやちゃん」
「はい〜?」
食事をしていると剛が声をかける。
「タケシと何かあったか?」
「えっ?!」
ガチャンッ
が手にしていた箸と茶碗がぶつかり音を立てる。
「わわ、すみません」
慌ててはそれらを一旦机に置いた。
「どうしたんですか?急に…」
「いやー、ちょっと前から思ってはいたんだけどな?
今日はタケシがちゃんのこと名前で呼んでたろ?」
「…う…」
剛の指摘には思わず言葉に詰まった。
「ははっ!親父には隠し事できねーなっ」
山本が湯呑を置きながら笑って言う。その表情は嬉しそうだ。
「親父、俺な」
そう言って山本は突然に手を伸ばした。
「おいっ」
そして肩を抱き、自分の方へと引き寄せる。
「と付き合うことになったんだぜ!」
満面の笑みで、山本は剛に報告する。
「本当か!ちゃん!」
「…はい…」
剛に確認をされ、この状況で否定出来るわけもなくは小さく頷いた。
その表情は恥ずかしいのかやや顔が赤い。
山本に引き寄せられたことで彼女の心臓はいつもより速く音を立てていた。
「そいつはめでてぇな!
ちゃん、こんな息子だが、よろしく頼むぜ!」
「えっ?!あ、はい」
勢いでは頷いたが、会話文だけ聞けば、まるで結婚話の延長のようだ。
「タケシ!ちゃんに何かあったら承知しねぇぞ!」
「分かってるよ、オヤジ」
剛の言葉に山本は笑って答える。
「ちゃんと守る」
「よしっ!」
真剣な目でそう付け足した山本に剛は強く頷いた。
「…」
あまりの直球での会話には僅かに俯いた。
同じ日本人なのに、何故こうも彼等は真っ直ぐなのか。
その真っ直ぐさは心臓に悪い。
だが、不馴れなものではあるが、
それを嬉しく思っている自分に、は軽く頭を振った。
「明日もバイトだなっ。なら明日はお祝いだっ!」
「ホントか?!」
剛の提案に山本のテンションが上がる。
「いやいやいやそんなお祝いってっ」
は慌てて止めに入った。
「まぁまぁ、良いじゃねーか、ちゃん」
「いや。でも…」
剛に笑顔で言われては口篭もる。
冷静に考えれば此処は山本家なので、
山本家の家長である剛の提案に反対するのは
雇われているいないを抜きにしてもどうかと思う。
「オレがお祝いしてーんだよ」
「…はい…」
其処まで言われては断わることが出来ない。は小さく答えた。
「ははっ!も嬉しいのか?顔が赤いぜ」
「っ!!」
バシッ
「いてっ」
うっかり一言多かった山本には裏拳を一発お見舞いした。
「じゃ、気をつけてなちゃん。
タケシ、ちゃんと送っていけよ」
「分かってるって」
「ごちそうさまでした」
剛に見送られ、二人は歩き出した。
「今日の練習。ゲームの時さ〜」
「うん」
道すがら出てくる話題はいつものように野球の話だ。
部活、プロ野球、メジャーリーグ。時期によっては代表戦。
日常会話もあるが、同じクラスなので、新しい話題は特にない。
トンッ
「!」
会話の途中で、の左手と山本の右手がぶつかった。
『マズイ』は瞬間的にそう思った。
気がついたら互いの距離が近い。
前は、付き合う前はきっとそんなことはなかったはずだ。
手がぶつかった記憶はない。
「悪ぃ」
は軽く謝って、半歩ほど右に距離をとる。
互いの距離が変わったのは、どちらのせいかは分からない。
それでも、自分が無意識のうちに距離を縮めている可能性はある。
いつ頃から相手が自分を意識したのかは知らないが、
は山本が好きだったのだ。
その理由ひとつさえあれば、自分が無意識に
山本との距離を縮めている可能性は十分にある。
『らしくない』そんな単語がの頭の中に過った。
「ん」
「っ?!」
自分の左手にやってきた感触に、の肩が揺れる。
「さみーだろ?」
の動揺を察知したのかどうなのか、山本は笑顔でそう言った。
山本がの手を握ったのだ。
「…寒いの好きって知ってるはずだけど?」
動揺を悟られないようにはゆっくりと山本に言う。
「んー、じゃぁ、俺が寒い」
「…何それ」
がマフラーを口許へと直しながら言うと、山本は再び笑みを零す。
「だから暖めるの手伝ってくれよ?」
そう言って彼は繋いでいた手の力を緩め、指を絡めるように繋ぎ直した。
山本の手はよりも一回りは大きい。これではどちらが暖めているのか分からない。
しかし、山本と手を繋いでも、彼の手が冷たいとは感じなかった。
自分の体温が上がっているのは、ちゃんと分かっているのに。
「…」
その時、はあることに気がついた。
互いの手に熱力学の法則が成り立たないとすれば、理由は一つしかない。
「…山本…」
は小さな声で彼の名を呼ぶ。
「ははっ。バレちまったか」
彼女の表情を見て、山本は何処か恥ずかしそうに笑う。
手を繋ぎたかった。
そんな簡単な、単純な理由だけだ。
「…今だけな」
小さくそう言うと、は山本の手を握り返した。
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